余韻嫋々

ビデオで新日曜美術館を見る。今回のテーマは「風」。その中で、一番印象に残ったのは篠原猛史氏による「風」の表現。野原で枯葉を舞い上げ、風を具象化―目に見える形に―しているシーンだった。とはいえ、僕が感じたのは少し観点がずれている。僕が考えたことは、枯葉を使って風をあらわすことで、枯葉では表現することの出来ない部分のほうが意識に残るということである。これを自分の卒論にひきつけると、どういうことになるだろうか。それは、きっと次のようなことになる。例えば記号や言語で何かが表現されたとき、すべてが表現されるということではないということである。つまり、汲み取りきれないものが依然として残るということである。長くなりそうなので、ここではこの程度にしておこう。
夜は山中千尋トリオのライブを見に行く。ちゃんとした音響設備の整っているホールでの音質はまったく違う。音が三次元的。一番印象的だったのは、ピアノの山中千尋さんがたくましい腕をしていたことだ。腕が見えるドレスを着ていたのと、割と前列の席だったので、山中さんの筋肉までよく見えたのだ。彼女の腕は外見や感傷的な音とは対照的に筋肉が浮き上がっていた。よく見ると、肩や背中にも筋肉がしっかりと付いていた。それはたくましくはあったけれども、男性的な筋肉という感じではなく、しっとりともともとその場所にあったかのようなものだった。軽やかに鍵盤を弾くのには肉体労働者の筋肉を持った体でなければいけなかったのだ。でも、それはむしろ彼女の音に物理的だけではない美しさを与えていたと思う。