書籍購入のため、大学近辺の古本屋を回る。

京都の大学周辺には古本屋も多く、ゆっくり回れば日がな一日楽しむこともできるかもしれない。

以前、おそらく友人と携帯で連絡を取りながら、各書店でのお目当ての古書の値段の比較をしているとおぼしき人を見かけたこともある。

いろいろと面白い人たちとの遭遇もある古本屋巡りでは、かごに押し込まれて一冊百円、三冊で二百円など値札が置かれている本の山に会うこともしばしばだ。

今回は、そうした本の山の中で、うつの本が随分と投げ売りされているのが目に留まった。

こうした本は当然古本なのだから、一時は誰かの手元にあったのだろう。

それが売りに出されているということは、もう(そうした病から)回復して不必要になったのか、この本では効果がなく放り出されてしまったのかどちらなのだろう。

十分にお勤めを果たしてお役御免となったのか、役立たずとして放擲されてしまったのか。古本屋に置かれているというかたちは一緒だが、後者であればいささか侘しくも思えてしまう。

友人知人の部屋に行くと本や本棚が気になるのは、それが持ち主の嗜好/思考を顕著に示すためでもあろう。もしくは、それらは逆算的に所有者を措定させる(してしまう)記号として扱われることもしばしばあるだろう。

古書であれば現前していない持ち主を措定することにもなる。

書き込みや線が引いてある書籍を手に取ったときに感じる微笑ましさや、居心地の悪さは、それがあまりにも以前の所有者の匂い=痕跡を強く残しているためであろう。

行間に書き込まれたメモや色違いで引かれた線、これらを目撃するときどこか秘め事を目の当たりにしているような気分になる。

それらは、どこか暗号めいていて、本文とあわせて読解の対象にすらなる。

私的な書き込みがなされた本を読むとき、本文と書き込みという二重の暗号解読にわたしたちは誘われるのだが、加えてなぜこの箇所に線を引いたのだろうかなど、本文と書き込みの関係にまで思いを巡らせるときもある。

それは該当箇所を注視する眼差しと、断片的なメモ書きをつなぎ合わせる縫い合わせる広がりを持った眼差しによる暗号解読に思えてしまう。もちろんここには目だけではおさまらない触覚(的なもの)がたえず夾雑物のように介入するのだが。

そして、その暗号は、性質上、親密性と拒絶(排他)性を同時に持つのだ。

古書の楽しみ/古書に対する嫌悪(快/不快)というのは、こうしたところにもあるのかもしれない。