存在論的メディア論―ハイデガーとヴィリリオ

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スペクタクルの社会 (ちくま学芸文庫)

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を読んでおく。どちらもきちんと抑えておかないといけない。

後者のほうで気になったのはspectacleの訳語。本文中ではスペクタクルで統一されていると思うが、この言葉自体には多くの意味があり、ギィ・ドゥボールがどのような意味で使っているかは注意が必要だろう。日本語の中で、単一の意味に押し込めるのも危険な気はするし。ただ、本文中でだいぶスペクタクルについては言及があるので、そこで確認していくべきだとは思う。



エドワードII(セカンド) [DVD]

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を見る。

ありがちな見方だとは思うが、やはり基本的には、実在するエドワード二世という存在を使いながらの、同性愛批判に対する批判映画ということに落ち着くのではないだろうか。歴史物語ではないことを示すものは警察の服を着た人々だけではなく、電動式のロボットといった小物等にも見られる。同性愛の批判を行なう人々は結局のところ、既存の価値体系に沿ってそれを行なっているだけで、直接的にそれを攻めるのではなく間接的なやり方―本人が気に食わない―などで批判を加える。しかし、結局のところそれは体系が変れば当の批判者にも向けられるものであり、砂上の楼閣に乗っかった批判に過ぎない、といったところか。

デレク・ジャーマンについての予備知識に引っ張られているような気もするけれども。

あとはキリスト教的なものについても気になった。

映画の衣装の担当として、ポール・スミスも参加している。スーツなどは多分そうではないかとは思うのだが・・・