芸術における手の働き、役割及びその意味について補助線としてR.G.コリングウッドの『芸術の原理』に目を通す。
基本的な軸を技術と芸術の関係、技巧としての技術と芸術としての「技術」の相違に据えて読む。コリングウッドは、もちろん、「技巧」ということを全面的に否定するわけではないが、技術としての手のあり方とは芸術のそれとはまったく異なることを示す。
強引にまとめれば、目的論的・機械論的な手としてのあり方、すなわち設計図に沿ってオートマティックにプロセスが進行していくような手のあり方は芸術の「手」のあり方ではない。では芸術における手のあり方とは一体どのようなものであるのか。その例としてミケランジェロが石塊のなかから像を<取り出す=探り出す>ことが挙げられている。すなわち、絶え間なく変遷・流動する創造の瞬間を探り当てること、偶然のポイントを捉えることこそが芸術における手のあり方であり、スタイルを産むことになる。
ただし議論が進むにつれ、コリングウッドは芸術とは情緒を引き出すと述べるようになる。しかし、こうした展開はコリングウッド自身が距離をとろうとしたロマン主義的芸術論または近代の天才概念に引きずり戻されてしまっているような感も受ける。
とりあえず簡単すぎるといえば簡単すぎるまとめ。

後半部では言語と芸術の話も展開され、プラグマティズムとの関連も想起される。このあたりはデューイとグッドマンを参照すればもう少しはっきりするかもしれないが、それはまた別の話。

ともかく今回は、コリングウッドがこの著作で語りかける対象を確認していなかったのでいまいちはっきりしない部分も残ったが、それは後に回す。