わたしたちの脳をどうするか―ニューロサイエンスとグローバル資本主義

わたしたちの脳をどうするか―ニューロサイエンスとグローバル資本主義

カトリーヌ・マラブーが「可塑性」という概念を軸にして脳とわたしたちの関係を、神経科学や認知科学のみならず哲学的・政治的にも論じた著作。

マラブーによれば、「可塑性」とは受動的―形態の変化を受容する―であると同時に、爆発的でもあるという。その例として挙げられるのが物騒ではあるがプラスティック爆弾である。自在にかたちを変えながら以前の形態を破壊するような性質こそ可塑的であるということができるだろう。その意味で可塑性は「柔軟性」とは異なる概念である。柔軟性とは絶えず受容的意味合いしか持たず、そこには可塑性のような爆発的な意味合いが含まれないためである。
脳こそ可塑的であるとするマラブーの理論は、決して取り付きにくいものではない。例えば、わたしたちが知覚する「現実」すらも脳の可塑性により構築された世界イメージであり、それを脳によって形作られているということを意識しないことこそが問題なのであるというマラブーの理論には納得できる部分も多い。
いってみれば、内‐外といった関係性ではなく、むしろ襞のように内と外を絶えずなし崩し、お互いを巻き込み展開していくこと、さらには一定の形―フォルム―を保ちつつも絶え間ない破壊=創造が繰り返されることにこそ「可塑性」の魅力があるといえよう。
とはいえ、いささか気になるのが、身体の問題である。この著作では身体についてはほとんどといっていいほど触れられていない―もちろん、触れられていないからといって、マラブーが身体の問題に無関心であるとはいえないだろうが―。例えば、幻影肢の問題などは本著作中でも言及されている。この場合ももちろん、脳が作り出した「可塑的な」四肢であり、脳の内と外の現実が襞のように折り重なり成立したイメージとして理解することで、身体の問題も決着するかもしれない(幻影肢の問題に関しては、マラブーも言及するように、例えばアントニオ・ダマシオが認知科学神経科学見地からアプローチを行っている)。とはいえ、身体の問題を果たして脳に還元することのみで議論は収束するのだろうか。もちろん、脳=心と身体が別物として心身に言論的なアプローチをとるのも今となっては的外れであろう。身体こそが重要だとか、身体には脳も汲み尽くせない情報があるなどと主張をするのでもなく、脳と身体の問題・関係性―例えば単純な心身の関係では論じきれない情動の問題。ダマシオも注目して論じている―を論じるのに、この「可塑性」の概念は有用なものではないだろうか、などとも考える。