テレビなどを見ていて、自動車や工具など自分の肉体ではないものを巧みに扱うときに、「自分の体の一部のように扱う」というような表現に違和感を覚えた。

この表現の裏にあるのは、自分の体は思い通りになるものという考えだろう。でも、本当に自分の体は、自分の思うとおりに動いているのだろうか。医学的には随意筋や不随意筋だってあるだろうし。

また、自分の実体験からいくと、自分の体ほど意のままにならないものはないように思える。身体やその運動や対象ということに関してはいくつも言説があり、対象と認識に関してはカントやメルロー=ポンティ等も挙げられるし、視覚などの感覚に関してはクレーリーなどもあるし、精神分析的にはラカン的な解釈もあるだろう。ここでは、そのような論にいちいち触れることはできないが、少なくとも僕にとって自分の体は、そんなに自分の言うことを聞いてくれるものではない。

こういったことは、身体と感覚の問題や、心身二元論といった問題にもつながってくるだろう。もう少し考えてみたいが、自分の体はまったくいうことを聞かないわけでもないということもある。

なんとも微妙な表現ではあるが、「自分が思っているほど意のままにはならないし、自分が思っているほど言うことを聞かないわけでもない」というところだろうか。こうして曖昧にしてはいけないのかもしれないが。

ともかくドゥルーズの時間・運動論、対象の認識に関係すると思われるので、もう少し考えること。


D―死とイマージュ

D―死とイマージュ

を半分ほど読む。

著者の宇野氏がその師であるドゥルーズへのオマージュをささげ、ドゥルーズの思想を用いてさまざまな対象を分析していく。まだ半分ほどだが、ドゥルーズへのインタヴューの内容などは示唆に満ちていて面白い。たしか、このインタヴューは『ユリイカ』にも掲載されていたはず。


最後の曲ははっぴいえんどのカヴァー。