ギロチンと恐怖の幻想

ギロチンと恐怖の幻想

ダニエル・アラスによるギロチンについて考察された本。序でも明らかにしているように、決してギロチンそのものではなく、「ギロチン」が産み出す効果を主眼として論じられた本である。アラスは大まかに分けて、ギロチンと時空間、身体、政治というものに関して議論を進める。
ギロチンが発明される以前は、火刑、車刑さらには死刑執行人による斬首が存在していたが、ギロチンが発明されることにより処刑は変貌する。効率という概念を組み込んだシステムでありながら、身体を切断するという二重性をその内に含んでいることを指摘しつつ、アラスは議論を進める。
ギロチンは「自由・平等・博愛」を示す装置=システムとなる。ギロチン発明以前、斬首は貴族=特権階級にのみ適応される処刑形態であり、平民は絞首刑であった。ギロチンが発明されることにより、誰もがまさに「平等」にギロチンにかけられることになる。そこにアラスは平民の身分形態の上昇を見る。断頭台の上では貴族・平民といったアンシャン・レジームの区別はなされない。
さらにギロチンにより身体における苦痛は限りなく「零」にされる。瞬間的に上方から刃が振り下ろされ、切断されることで、肉体的な痛感は「博愛」的にに限りなく減少させられることになる。こうしたギロチンの瞬間性が生み出されるのは、その刃から差し伸べられた首までのわずかな距離によってである。しかし、このあいだの空間は分割不可能な点としての存在であることから、距離があるのに区分することができないという逆説的な存在でもありえるのだ。さらに、この眼に止まらぬほどの速さでもなく、目視できるほどの速さでもない、微妙な瞬間性によって本来不可視であった「死」は、ギロチンという形態によって逆説的に可視のものとなり、ギロチンはこうした「死」と瞬間のあり方を生々しく体現する。

「自由」の名において、ギロチンの刃が振りかざされるのだ・・・

ギロチンによって、分離することになった頭部と身体。こうして分断されることになった有機体の一方のうちの頭部、この部分だけが視線と言説をひきつけるとアラスは述べる。ルイ16世が処刑されたことを踏まえて、まさに元首が既存の権力を否定された形で処断されたと述べるのだ。首の分離、アラスはこうしたことから、ギロチンを肖像機械とする。ギロチンによって処刑された人間の首は、滴り落ちる血のしずく、顔の配置によって、それと分かるように描かれる。すなわち、図像学的な分析、理論的な分析が可能な一つイマージュの形態をギロチンは生み出した。身体は欠損し、切断された頭部とその頭部を突き出す前腕部のみが存在する。この頭部と前腕は権力が受けた革命とその執行権の代理を示す中立的な存在となるのだ。
さらにこうした頭部の存在は、仮面、顔だち、素顔といった用語に対して、マスクと素顔(ヴィザージュ)の問題を提起する。

ギロチンで処刑された人間の肖像はマスクとヴィザージュを合致させるフィギュールとして差し出される…

アラスはこうしたギロチン的肖像とでも呼ぶべき肖像を、写真と関連させる。
19世紀のカメラで、とくに肖像写真を撮る際に使用される仕組みのシャッターの方式を指すのにギロチンという用語が使われることと、ギロチンの執行官が《写真屋 フォトグラフ》と呼ばれていたことを指摘する。さらにアラスはバルトの文章を引用し、写真とギロチンが姉妹関係にある述べる。ありのまま、「それはかつてあった」というバルトのフレーズを髣髴とさせるような言葉を使いつつ、肖像としての存在、「ギロチンによって処刑された存在」=反逆者としての存在という二重の存在を映し出す。
こうしたことを産み出すギロチンと写真を社会的統合体を管理し統御する道具としてアラスは捉えていく。犯罪者識別法、人体測定法、コードの作成、プロポーション…このようなものを産み出す存在としてもギロチンを考察するのである。

他にも処刑のスペクタクル性や政治性に関しても言及はあるが、ざっと個人的に興味があるところはこの辺り。

ヴィザージュに関しては、ドゥルーズが言及しているのでこのあたりも抑えていこう。