オムレツに

オムレツになるまでにはいかなかったか。

ただ、それでも卵は割って、ボウルでかき混ぜたところくらいまではいったと思う。

研究会の内容としては、オクトーバーの視覚(文化)研究に対するアンケートに対する、トム・ガニング、マーティン・ジェイ、ジョナサン・クレーリーの回答を提示し、それに対して自分たちの立場を確認しつつ議論を行うというものになった。
レジュメをきった3人と司会、ご苦労様でした。

今回の議論の中で興味深い点はいくつかあったが、その中でも「視覚 Visual」という概念に対するガニング、ジェイ、クレーリーの立場が批判的であり、かつ微妙にずれていることがまずは興味を引いた。

それは三人の意見をまとめて長所と短所を挙げた場合、短所のほうが明らかに多いことにも結果的にはつながることなのだが、「視覚」という言葉を使うことによって、安易なつなぎを生み出してしまうこと、単層的な視覚のとらえ方の拒絶、ということに原因があったように思う。

ニュー・アート・ヒストリー、ポストモダンカルチュラル・スタディーズポストコロニアル、こうした言説で語ることができないものを研究していくのが視覚研究のはずであったが、「視覚」という言葉で単層的にものごとを切り取ってしまえば、それはすでに回答ありき、の言説にしかならない(言説の一元化。その具体例としてジェイはラカン精神分析による弊害を挙げている)。

それは結局のところ、あらたな蛸壺を生み出し、なんでもかんでもつなげてしまえばいいということになってしまう。こうしたことに対して三者は危惧の念を示していたのではないだろうか。

では、それに対して現在の視聴覚文化研究会はどのような立場をとるべきか。

私は、反―視聴覚文化的なスタンスをとることがまずは研究会のスタンスではないかと思う。

どういうことかといえば、上記で述べたように、「視覚」という概念はそもそもつくられてきたものであり、重層的な構造をとっていたはずである。それはクレーリーの生理学的の観点からの研究や、構造主義的な静的観点からでは語りきれない映画論などでも明らかである。ドゥルーズにしても、フランシス・ベーコンの絵画を通して(他にも「顔」、顔貌性、「風景」などを通して)、西洋の三次元的な遠近法によって確立された視覚体制への批判を行っていると、私は考えている。
聴覚に対してはすでに述べられていたが、視覚的な言説を強引に当てはめることによってでしか語られてきていなかったことなどが、聴覚には該当するだろう。これに関しては聴覚の専門家がいるので、また聴いてみたいところではある。
このような一元化や枠組みの強制的な嵌め込みに対するのが、研究会を行う意義ではないだろうか。いままで自明のものとして語られてきた視覚や聴覚に対する「反―研究(会)」として、研究(会)があるのではないかと思う。
とりあえず、こうしたことが確認できただけでも意味はあったのではないだろうか。

今後の自分自身の課題にもなるが、ヴィジュアル・カルチャーに先立つ言説―カルスタ、ポスコロ、ポストモダンなど―でどのようなことが語られ、どのようなことが語りきれなかったのかということは実際に確かめることが必要だろう
また、それとも関係するが、今回オクトーバーの言説を確認したことは非常に意義があることだが、その言説を相対化する意味でも、他の文脈で視覚文化がどのような語られ方をしていたのかを確認することも必要になるのではないだろうか。
また、発表者も述べていたが、ヴィジュアル・カルチャーに対しては、美術史的な観点だけではなく、他の観点もいれて考えなければならないだろう。例えば、技術史、認知科学などが挙げられるだろう。

以上簡単な感想と個人的なまとめ。