東京

ユビキタス国際シンポジウムと展覧会をいくつか見るために、東京へ。

何よりも接待してくれた方々、本当にありがとうございます。

キットラー蓮見重彦氏、スティグレール、スタフォードと豪華な顔ぶれだったが、一番楽しみだった浅田彰氏とコールハースは不参加であった。当日まで知らず、これは本当に残念。

講演自体は、分かりにくかった。特にキットラーは同時通訳による翻訳だと、ほとんど何についてしゃべっているのか分からない。もちろん自分が勉強不足というのもあるのだが、キットラーはontologyについてハイデガーや技術という観点から語っていると思われたが、結局最後まで良くわからなかったというのが本音。

蓮見氏は、あらゆる映画はサイレント映画の一形態であるという持論を展開され、論旨としては明確であった。しかし、内容としては疑問点がいくつか残った。具体的には視覚と聴覚の関係において聴覚を視覚に従属する形態としてしか扱っていないこと、すなわち聴覚的な問題を視覚の枠組みでしか考察していないのではないかという疑問が一つ。もう一点は、技術論的な内容に偏っていたため、受容者側の視点が抜け落ちている点。二点目に関してはシンポジウムの方針ゆえに仕方ない部分も当然あるのだが。しかし、論点、論旨は分かりやすく興味深く聴くことができた。

スティグレールはそれよりもまだ分かりやすかったが、こちらも似たようなもの。デジタル空間における距離性、存在論とは何かということが一番興味を引かれた。スティグレールはかなり哲学的なタームを連発しており、同時通訳の人がそれを拾えていないため―supplementやplan de consistenceなど。もっとも拾うのを望むのは酷であろう―一般概念と混同されてしまう可能性が多く分かりにくかった原因の一つ。デリダのほかに、シモンドンの概念をずいぶんと多用していたという印象。

スタフォードは少し前に『ボディ・クリティシズム』を読んでおり、内容はそれと類似していたため他と比べれば比較的おさえることができたように思われる。認識論や生理学的な視点から技術や芸術というものは何かということを語っており、四者の中では唯一スライドを使い、それが抜群に面白かった。バルトルシャイティスの著作にでてくるアナモルフォーズの話も出てきていたところが特に面白かったが、内容もスライドもすさまじい情報量であった。

なお、個々のレジュメはパソコンでネットにつないで見るようになっていたのだが、パソコンをもっていない身としてはレジュメがないため話についていけないことが多く、レジュメがあればもっと分かったかもしれないという思いは常にあったので、それは非常に残念であった。

個別発表では、聴きたかったメディア論の発表を聞いて終了。

東京滞在中、国立新美術館原美術館などギャラリーも含めていろいろ回ることができたのは収穫であった。
特に原美術館でのヘンリー・ダーガー展では、これまでダーガーを見たことがなかったので、直接見ることができたのは良かったのだが、それ以上にジャン・ピエール=レイノーのグリッドになった作品が面白かった。

と感想。