無題

メゾン・ド・ヒミコが封切られた。

音楽は細野晴臣だ。

これは見に行こうと思う。

ホームページでの予告編で田中泯の会話のシーンがある。田中のはゲイの父親という設定だ。ゲイであることを示すのにはさまざまな要素が必要になる。映画の中では唯黙ってたっているだけ(比喩的な意味は除いて)では何も生まれない(たっているだけで存在感がある場合もあるけれどもそれは考えない)。何らかの特性を示すために、この場合では服装や身振りなどが考えられるだろう。実際に、同性愛者であるようなことを思わせる衣装を着けている。

僕が注目したのは言葉遣いである。言葉というものは口に出された以上のものを伝えているとはよく言われることだろう。もちろんそこには言葉以外の要素が数多く含まれている。ただ、言葉だけを取って考えてみれば、語尾や人称をどうするかで印象は大きく変わる。たとえば、映画の吹き替えや翻訳における人称の決定などが例として挙げられる。もっと突っ込んだ例として個人的に思いつくのは村上春樹の本における人称だ。主人公は『僕』という一人称で語られることが多い。『ノルウェイの森』のフランス語版を知人からいただいたのだが、そこでは人称はすべてjeとなっている。もちろん、僕が知らないだけで、フランス語でも微妙な語幹をあらわわすものがあるかもしれない。でも、日本語の「僕」という言葉から受ける感覚はフランス語のjeでだいぶ違うのではないだろうか。