視聴覚文化研究会問題について

今回は自分の立ち位置を確認する良いきっかけをいただいたと思っています。本当にありがとうございました。

私は現在大学院という機関に所属しています。こうした機関に所属している以上、そこでの「言説」には従わないといけないとは思っています。ただ、それは自分がやっていることをアカデミックな体系の中で「研究」として語るために必要なルール、という意味での「言説」です。こうした大前提があり、それと同じレベル、もしくはその次に、自分が研究としている対象について語るためのルールが存在すると考えています。それが私の場合だったら、ドゥルーズに関する(先行)研究、フランス哲学に関する(先行)研究や、それらをおさえることなどが挙げられるでしょう。このほかにもいろいろな文脈や場に合わせて、ルールが存在することになります。研究を発表するということは、こうした複数のルールが混在している(もちろん何らかの大前提は存在する)中で、自分がやっていることをプレゼンテーションすることではないか、逆に言えばプレゼンテーションのためのルールに従うことが必要ではないか、と、今の私は考えています。
こうした対象を語るための「ルール」を押さえた上で、自分の研究対象を自分なりに語る視点や問題意識にしたがって、対象は語られることになります。しかし、このとき、従来の語り口―先に述べたルールとは微妙に異なる。というのもこのときの語り口とは、それまでの先行研究などにみられる視点や視座を批判・検討するものであるから―では、語りきれないものが出てくる。そのために、もっと違った観点や切り口が存在しないか、ということで研究会に参加しています。

これまでの議論や内容とは少々視点がずれてしまうかもしれませんが、今回のやりとりで私が一番感じたのは、視覚文化や聴覚文化や現代思想を専攻・研究しているということだけが問題ではなく、「美学」や「芸術学」といった専攻で研究を行うとはどういうことかということでした。実際、ドゥルーズを専攻するならば哲学科に所属して研究を行うことだって可能なはずだし、そちらの方がむしろ適切なのかもしれない場合だって存在する。では、なぜ私は美学でドゥルーズを専攻しているのか、ここだからできることは何であるのか。少なくともこうしたことに無自覚であってはいけないのではないか、ということを感じました。
少なくとも美学という学問の良さは(もちろん、他の学問が悪いとか他のところではできないいう意味ではまったくありません)妙な枠組みをつくることなく、そこから抜け出して横断的にできるのが美学の良さだと思っています。そうした専攻の中でドゥルーズに限らず研究をすることの意味はきちんと考えなければならないと思っています。こうしたことを体現できる場として、今後も研究会があれば、とは思います。それができなかったらおそらくやる意味もなくなるのではないでしょうか。