フライデーあるいは太平洋の冥界

フライデーあるいは太平洋の冥界

『意味の論理学』でドゥルーズが、ボーグが論文「可能なものの芸術」で採り上げているのがミシェル・トゥルニエのこの作品。
よく知られているダニエル・デフォーの『ロビンソン・クルーソー』を基にしている。
ずいぶん昔に読んだのでデフォーの方はほとんど覚えていないが、トゥルニエの作中における大きなテーマはまさに他者、他者性といってよいだろう。
船が難破し無人島に流れ着いたロビンソンは、島によって打ちのめされる。島は決して自分を受け入れることはしないのである。
それならばと、ロビンソンは開拓を行い、農耕を開始し、牧畜を始める。こうすることで島は従順なものとなっていく。ロビンソンは様々な秩序を作り出し(時計を開発し「時」をもつくりだす)、もちろん様々な自然と棲み分けはなされているが、島を管理下におくようになっていく。
しかし、フライデーが登場することで状況は一変する。ロビンソンは初めのうちフライデーを自信が作り上げた秩序の枠組みの中で支配下に置くのだが、その枠組みを理解しないフライデーは常に異物である。異物としてのフライデーを枠内に取り込んでしまうことで逆にロビンソンの枠組みは破壊されることになり、さらには新たな枠組みが生成されることになるのだ。
最終的な結末としてはデフォーのものとはおそらくまったく異なっているはず。他者を失ったロビンソンと絶対的な他者の存在をあぶりだす。
ある意味ではヘーゲルの主人と奴隷の弁証法にも通じるものはあるかもしれないが、そちらを重視して考察するよりも、制度としての顔(及び顔を支えるもの)と大文字の他者というような関係を考慮して、ドゥルーズとボーグの論文を読み直してみたい。