国立国際で開催中の皮膚展について


皮膚とインターフェースの話はよくあるものだと思うし、実際に展覧会のテーマの一つでもあった。

ただしこのインターフェースとしての皮膚は決して単純なものではないだろう。確かに皮膚はシームレスかもしれないが、そこには汗を出すような無数の穴があり、産毛や毛が生えていて、掌紋があり、指紋も存在する。異質なものが一枚の表面において混在している。さらに皮膚が単純なインターフェースではないことは、唇の存在を考えればはっきりするのではないだろうか。唇は皮膚の一部でもあるが、内臓の一部でもある。それは体の内部へと皮膚がつながっていることを示すのと同時に、内部が外部へと折り返されていることを示す身体部位でもある。こうした観点からいけば、皮膚は身体とはまったく別ものとしての鎧、という発想とは一線を画すことにもなるだろう。それは外部としての鎧ではなく、内でもあるのだから。とはいえ、皮膚はある意味では鎧でもある。それは外部からの刺激から身を守るものというよりも―もちろんそれもあるが、あまりにも脆弱―「肉」としての内部すなわちリアルでグロテスクな「過剰な生」の発露をおさえるものである。例えばオルランの作品は皮膚というよりも、そこから漏れ出した肉の痕跡を示す性格が強いようにも思えた。
内と外をつなぐものとしての皮膚は動的ではない。が、動的でもあるだろう。確かに、皮膚は眼に見えて蠕動したりすぐさまその姿を変えるわけではない。しかし、絶え間なく外からの変化を受け取り内へとその変化を通じさせ、その内部の生が漏れ出さないように勤めているのである―傷をおったらすぐに傷口は「皮膚」によって覆われるように―。生の漏斗を防ぐために、すなわち動的な平衡状態*1を保つために静態形をとることになる。*2

できごとが常に起こり続ける劇場としてのインターフェース。

皮膚の面白さは単なる一元論ではなく、パッチワークのようにいろいろなものが表面に混在していながらも「滑らか」となってしまうこと(まさに「肌理」の問題や次に挙げるものと関連する時折漏洩する生のなまなましさの問題)と、ダイナミクスのための静態、生が撒き散らかされないように対応していく動的な枠組みということにも有るのではないだろうか、などと考える。マーク・クィン、林智子あたりが面白く、ヤン・ファーブルは昆虫が苦手なため見るには見たがなんとも言えず。まさに「鳥肌」になる。そんなファーブルの部屋で面白かったのが見ていた人が眉間によせる「しわ」であった。

皮膚の「滑らかさ」とは中心の無い逃げ去っていくイメージの問題とも絡むのだろうか、と取り留めなく考えてみたりもする。