ピピロッティ・リスト「からから」@原美術館

原美術館でのピピロッティ・リスト展。ヴィデオ・インスタレーションを中心とした作品で、数は少なかったものの面白い作品が多く見ごたえがあった。
例えば最初の部屋では、床一面に映像が投影され、観客自身もその映像を浴びつつ作品を鑑賞することになる。この映像作品は一つ上の階からも眼差すことができ、その場合は映像に身を曝す必要はない。観察者として作品を見ることが可能になる。他にも自らの身体をスクリーンとする作品展示など、観客の身体と密接に結びつく作品群が展示されている。こうしたインタラクティヴという意味での身体性のほかに、セクシュアルなものと結びついた生々しさという意味での身体性も今回のリストの作品には多く見られた。過剰なまでの生―グロテスク―の提示は性器という対象だけではなく、それを表現する色彩効果によっても高められる。華やかな色彩―時にはどぎつくさえある―によって表現された映像は溶解を繰り返して、絶え間なく次に表れる映像の中に消えてゆく。次に現れる色彩のうちに鮮やかな粒子となって溶け出して微分的織り込まれていく。このディゾルヴによってリストの映像作品は、はっきりとした映像の輪郭を持つような作品というよりも揺らぎの中にあるような印象を与える。溶解という運動を通した生成とでも言うべきか。
全体的には過剰な生/性という意味で動物的なエロティシズムを感じると同時に、植物的なそれを感じもした。植物の華やかな花びらの内側に隠されためしべとおしべを見てしまうような感覚であった。

最初に書いたように、点数は多くはない。原美術館で大量の展示をするということ自体不可能ではあると思うが、それを補って十分面白かったように思う。それにしても相変わらずレイノーの「ゼロの空間」では吐き気を覚えるのはなぜだろうか。

メディアアートと呼ばれる芸術で映像を中心としたものを論じるときどのような語句を用いるべきなのか、ということには注意を払っておきたい。
既存の言葉や概念―例えば映画のそれ―を借りて論じることになるのであるが、果たしてそうした語句がふさわしいものなのかどうか、意味合いのずれ、安易な直線的歴史観という陥穽に無意識のうちにはまってしまうことなどは気を配っておこう。