「サイレント・ダイアローグ 見えないコミュニケーション」@ICC

国内でメディア・アートやインタラクティヴ・アートが開催される主要な美術館(芸術センター)としては、仙台のSMT、山口のYCAMなどがあるが、その中でもICCはテクノロジーとアートを中心に取り上げてきた先駆的な存在である。そんなICCで今回の展覧会は「物言わぬ」とされてきた植物の「語り」をどのようにしてとりあげて、感覚可能なものにしていくのかということを大きなテーマとしたものである。それも、距離をとってそうした語りを眺めるのではなく、自分のからだを動かして体験する「インタラクティヴ」な作品群が中心となっている。例えば、安藤孝浩は眼に見えない生物フォトン光電子増倍管を使って可視化させ、さらに放出される粒子の刺激を両の掌で感知することができる作品を提示している。また、クリスタ・ソムラー*1&ロラン・ミニョーは植物に触ることで目の前のスクリーンに植物が描かれる作品を出展している。
眼に見えない力を知覚可能にすること。この言葉は画家パウル・クレーによって何度も述べられ、ジル・ドゥルーズの芸術に対する基本的な考え方の一つでもある。潜在的な力をリアルなものとして捉えること、こうも言い換えられるだろう。今回の展覧会で個人的に面白かったのは、こうした不可視の存在=力をまさに「身」をもって体験するということだった。藤枝守+銅金裕司による作品は距離のとり方によって植物が発生する音やその波形が変化するものであり、ひたすら動いて体験する。こうした体験は分断されたばらばらの五感という感覚によるではなくて、むしろその全部が交流しあった状態の感覚を用いたものではないだろうかとも思う。その一方で、触覚の持つ意味合いについても考えさせられる。先に述べた藤枝=銅金のような作品でもそうであるように、じかに触れ合わなくても相手や対象の雰囲気は感じ取ることができる。インタラクティヴ・アートというジャンル、さらにはメディア・アートというジャンルにおいて触覚の持つ意味合いはどのように変わったのか。ヴィジュアルカルチャーや視覚文化というものに対して、触覚の概念やインタラクティヴアートがどのような働きかけや作用ができるのか、ここは今後も考えていきたい。個人的にも触れることや触覚について議論を組み立てていきたい。フータモやヴァイベルなどはメディア・アートにおける触覚論に関してもこれまでとは異なる形で言及しているので、ぜひ読み込んでいこう。

…美術館の展覧会場には学芸員さんのほかにスタッフの方々がいて、いろいろな便宜を図ってくれたり注意を促してくれたりします。
ただ、ICCのような美術館におけるスタッフの方々の役割は他の美術館とはちょっと性格が異なるような気がします。というのも、どこかの美術館の何かの展覧会のとき、作品に近づきすぎた場合注意をされ距離をとるようスタッフの方に促されたことのある人は少なくないかもしれません。ICCという美術館やインタラクティヴ・アートの場合はむしろ逆で、「どうぞ触ってください」と励ましてもらいます*2。企画展も含めてですが今回のICCの常設展もほぼこうした触れることのできる作品によって占められていました。ぼくは自分の研究のこともあるのである意味「触れるため」に作品を見に行ってほとんど遠慮なく触りますし、説明もしてもらいます。ただ、あまりこうしたインタラクティヴ・アートに興味がない人が、作品を見に来た場合どのようになるのでしょうか。ひょっとしたら触ることにためらいを覚え、素通りして他の作品を見に行ってしまうかもしれません。もともと芸術作品に物理的に触れることは基本的にはタブーという雰囲気があります。触れてはいけないと思っていたものに、最初からはなかなか触れることはできないようにも思います。触れなければインタラクティヴな作品は意味を持つことはないでしょう。さらに、触れたとしても意外と操作が難しかったり複数で行う作品もあり、スタッフの方々の説明と協力がなければここでも作品との交流が損なわれる可能性もあります。
今回の展覧会で一番強く感じたのは、ICCスタッフさんたちの多さ*3こそがメディア・アートやインタラクティヴ・アートの問題を一番よく体現しているのではないか、ということです。それはスタッフの方々が悪いということではまったくありません。むしろいつもここにいったら丁寧に解説や対応をしてもらっています。問題とは、メディア・アートやインタラクティヴ・アートにおいては鑑賞のまえの「鑑賞」への考察すなわち作品の前まで足を運ばせることの難しさに対する考察と、実際に触れたときの操作の困難さということです。もちろん操作自体は難しいものではありませんが、説明を一度は聞かないとわからないものが結構ありましたし、やはり操作につながる説明は必要だと感じました。
「見るために視させる」、「視るために触れさせる」、「触れるために触れさせる」なんだかごちゃごちゃしてきましたが、メディア・アート、インタラクティヴ・アートにおける「視ること」/「触れること」の難しさやその展示や展示方法という問題圏で作品と同時にスタッフさんたちも眺めていたということです。
ちなみに、ここのメディアラボは非常にぼくにとっては便利です。80年代から90年代にかけての雑誌でなかなか手に入らないものや大学にないもの―ぺヨトル工房の「WAVE」や「GS」など―を実際に手にとって見ることができるので助かります。またいずれ調査にいかないと。

サイレント・ダイアローグ―見えないコミュニケーション

サイレント・ダイアローグ―見えないコミュニケーション

*1:「インターコミュニケーション インタラクティヴ・アート特集」1993

*2:もちろんICCのような美術館でも駄目な場合も当然ある

*3:人数というよりも掛け合いの回数