なぜ審判は人間である必要があるのか1?

昨今、スポーツのジャッジにスーパースローやコンピューターを駆使した技術が導入されてきている。テレビやインターネットが普及し誰もが得点やファールなどのシーンを目の当たりにすることができる。それも時と場合次第では何度も繰り返されて目撃することになる。テクノロジーの発達により、例えばファールのシーンや落球のシーンなどは実際の審判以上に分かるようになっているかもしれない。というよりも画面の前の観客の方が、現実的にはその場に居合わせる選手やの審判よりも克明に状況が分かっているだろう。しかしながら、少なくとも野球やサッカーなどのスポーツにおいては、そうした状況下でも依然として主導権を握る審判はどのスポーツでも大概人間のままである。もちろん機械の導入や機械化するという意見も根強くあると思うが、基本的には人力のままだ。ではなぜ人間よりも「的確」な判定を下すことができる機械を前面に押し出した審判制度が成り立たないのか。前々から疑問に思っていたことである。

この問題を考えるには、まずは「審判」という存在の位置づけと実際にプレーを見る側の視点についての考察が少なくとも必要だろう。
サッカーの場合を例にして考えてみよう。審判は当然選手ではない。ゲームをコントロールする立場である。しかし、決して「主役」になってはいけない存在である。ゲームを必要以上にエンターテインメント化、スペクタクル化してはならないのだ。また、見えてはいるけれども見えてはいないものとして扱われる。例えばボールが当たっても石ころにあたったのと同等の扱いを受けるように。フィールド上のプレーを行う22人の選手とは異質であり、石ころ的でありながら裁定を下す孤独な(ラインズマンを入れれば3人で、第四の審判まで入れれば4人だが)存在。一定の状況下では選手を領域から追放する権力をもつ神的な存在である。以上のことより審判は少なくとも石ころ=神的な二面性をもった存在であるということが言えるだろう。しかしながら、これだけではまだ不十分である。というのも、サッカーでは「マリーシア」と呼ばれる審判を欺くための技術があるのだが、それは石ころや神的存在に対しては効果を持ち得ない。このテクニックは審判の異なる側面を対象としているのである。次回はこうした審判の別の側面と、過ちを犯さない絶対的な審判としての機械的存在つまり文字通りのデウス・エクス・マキナとしての機械審判についても検討してみたい。