「わたしいまめまいしたわ」@東京国立近代美術館

回文タイトルの展覧会。フランシス・ベーコン、ビル・ヴィオラ高嶺格澤田知子牛腸茂雄など。
近代の終焉、すなわち大きな物語が終わりを迎えたポストモダンの時代においては小さな物語、もしくは擬似的・一時的な大きな物語を作り出すことで言説装置はからくも作動してきた。こうした大きな物語の終焉と軌を一にして確固とした主体という幻想はもろくも崩れ去った。例えばフーコーのパノプティックな眼差しによる他者の視線の内面化、ウィトゲンシュタイン言語ゲーム論や、最新の脳科学理論など、主体の崩壊を例証するような言説は数多く挙げられる。近代の終わり以前に既に主体の崩壊は始まっていた、という議論は別にするとして、今回の展覧会もこのような「主体」もしくは主体性に対して問題を提起するような作品が展示されていた。例えば上記でも触れたオプアートの第一人者のブリジット・ライリーの作品。ライリーの作品ではカンヴァスの平面に描かれたものに視線を投げかけるだけでなく、投げかけた視線が絶えずずらされることによって生じるめまいなどの身体的作用が最も重要である。そこに生じる主観的知覚は誰もが同じ体験をするわけではない。眼という器官を持っていたとしてもその反応には個体差が必然的に生じることになる。確実な主体がなくなると同時に、同じものを見ているということすなわち客観的な客体という存在も消滅することになるだろう。「わたし」が投げかけた視線はわたしに回文のように戻ってくる。でも戻ってきた視線は投げかけた私の視線と果たして同じなのか。「わたし」から「わたし」へめぐる視線は絶えず他者というノイズを受けてずれて、脱中心化して戻ってくるのである。このようなある種のコミュニケーションルートを考えるとシャノンの情報理論との相似もおぼえてしまう。うろ覚えで間違っているかもしれないが、ベイトソンによれば情報とはイコール差異であるのだから共通点は見つけられるかもしれない。
このような議論は80年代を中心として随分となされてきたようにも感じられる。そこから30年近くたった今、果たして同じレベルでの議論が可能なのであろうか。それは極めて疑問でもある。おそらくポストモダンと呼ばれた人たちの理論が積極的に導入された80年代当時の言説の影響は当然あるにせよ、随分と議論の方向は変化しているとは思う。単なる安易な相対主義や多元論、自分探しのような反動的な絶対主義ではなく、違うところで議論ができればいいとは思うし、そのような作品がもっと見てみたかったというのが感想でした。あとは館内は相当暑かったので作品は大丈夫かなと余計なことを考えたりしました。正直、社会や国家レベルでは(マルチカルチャリズムのような)幸福的多元論自体は行き詰まりを見せていると思うので、多元論を論じるのなら別方面からの視差が必要ではないかとも個人的には思います。